生存主義と愛情主義

生存主義と愛情主義
人生は誕生から出発する。
生まれて直ぐの赤ちゃんは何にも知らないようだが
母親の乳房が口に触れれば即反応する。
何も教えられなくても、
自分で吸収する意欲と能力を持っている。

赤ちゃんに限らず、どんな生命でも
生まれた以上は生存を維持しようとする強い欲望を持っている。
単純に生存欲と呼ぶことにしよう。

赤ちゃんは他人の迷惑など考えていない。
いつでもうんちをするし夜でも泣き叫ぶ。
ただ自分の欲望を満たそうと真剣だ。
自己中心の典型だ。

母親の立場から見れば
赤ちゃんに乳を与えることは大変な被害と言える。
母乳の元は血液だ。
母乳を与えることは血液を搾り取られることを意味する。
ヒルや蚊が血を吸えばたちどころに排除する。
しかし、赤ちゃんが無心に乳を貪る姿を
愛おしそうに目を細めながら見つめているのが母親だ。
一体どういうことなのだろうか。

赤ちゃんが乳を飲む行為は
生きようとする赤ちゃんの本能であり欲望と言える。
しかし、
「母親は欲望が深いために赤ちゃんに乳を与えようとする」
とは言わない。
もしそれを表現するなら
「母親には赤ちゃんに乳を与えようとする愛情がある」となる。

自分の欲求を満たそうとする衝動は欲望と呼ばれる。
しかし、他者の欲求を満たしてあげようとすれば愛情と呼ばれる。
欲望そのものは何も変わっていないが
誰の欲求を満たそうとしているかで、かくも異なるのだ。

他者の欲望を満たそうとすれば
自分の欲望を犠牲にしなければならないことも多い。
乳を与える母親は大変な犠牲を背負っているが
犠牲という認識さえ持っていない。
愛情は愛する者のために犠牲になることさえ
喜びに変える力を持っている。

欲が深いと言えば悪いイメージがあり、
愛が深いと言えば素晴らしい響きとなる。
しかし、
愛するには相手の欲を満たしてあげなければならない。
相手に欲がなければ愛は成立しない。
乳を欲しがっていない赤ちゃんに乳を与えようとしても
嫌がられるだけであり
それを無理強いすれば愛のない行為となる。
乳を欲しがっているのにおもちゃを与えても意味はない。
愛情は相手の欲望を前提として成り立っていると言える。

愛情は代価を求めない。
ビジネスなら納品すれば必ず記録する。
集金の資料とするためだ。
しかし、
母親が子供に与えた乳の記録を残すことはない。
代価を得ようなどとは考えていない。
与えても与えたこと自体を忘れている。
それが愛情だ。

三大生存欲
人間が生まれながらに持っている欲望を整理してみよう。
ここでは生存欲、家庭欲、社会欲に分類する。
この三つの欲望を三大欲と呼ぶことにする。

生存欲とは生存を維持発展させようとする欲望である。
まず肉体とその生命を維持するための欲望がある。
食欲、睡眠欲、安全欲などきりがない。
更に、生きる意義や目的を知りたいという精神的欲望もある。

家庭欲とは男性なら女性を求め、女性なら男性を求める欲望である。
もちろん結婚して子供を持ちたいという欲望が根底となっている。

社会欲とは家庭を超えて社会に貢献し、尊敬されたいと願う欲望をいう。
ノーベル賞に対する欲望もオリンピックの金メダル欲望などがその例だ。
名誉心と言い換えることができる。

三大欲の中で個人に限定されるのは生存欲だけである。
家庭欲はそれぞれ伴侶が必要であり、子供が必要である。
妻や子供の生存欲を満たすために働かなければならない。
ある意味では個人を犠牲にせざるを得ない。
個人を犠牲にして他のために尽くしている事実により
家庭欲は明らかに愛情と呼べる範疇に入る。

自分の子供を立派に育てることは
ある意味では素晴らしいことであるが
「それは当然の義務であり、別段褒められることでもない」
という見解も成り立つ。
ところが、
親のない他人の子供を引き受けて
我が子同様に育て上げた人に対しては
誰もが立派だと賞賛する。
子供の数が多ければ多いほど賞賛は大きくなる。

家庭という領域を超えて責任を持つ範囲が広くなれば
それだけ大きな愛情と評価される。

それが社会欲へとつながってゆく。
家庭欲が特段強調されるべきは
個体が次世代へと受け継がれるように
子供を産み育てるという重要な責任があることだ。
これは未来への責任とも言える。

自分の生存欲のための動きは欲望であり、
家庭欲、社会欲は他者のために尽くすことが前提となり
愛情とみなされる。

愛情主義のふりをした欲望主義
ここで注意しなければならないことがある。
国会議員ともなれば
国を愛し国に責任を持とうとしている人に違いないと思われる。
しかし、私利私欲が根底にあれば
愛情とはみなされない。
国を愛しているのではなく
国を悪用しているだけのことだ。

国の責任を持つことを優先順位第一番に置くべきである。
時には自分やその家庭を犠牲にしなければならないこともありうる。

家庭に責任を持たず自己本位の生き方をしていれば
それは愛情のふりをしているだけで
実は欲望に振り回されていることになる。

人生の三段階
さて、人生を三つに分類して捉えてみることにする。
自立人生、現役人生、勇退人生だ。

まず、自立人生とは
親や社会のお世話になりながらひたすら自立を目指す期間をいう。
この段階では家庭欲はまだ発動していない。
ひたすら生存と発展を求めての人生であり生存欲が中心となる。
一般的には誕生から成人式までが自立人生に該当する。

自立人生を卒業するには幾つかの条件がある。
●自分のことは自分でやれるようなしっかりした考え方を持つこと、
●良き伴侶を持つこと、
●家族を養うだけの収入を確保する仕事を持つこと、
などが代表的な条件と言える。
どれが欠けても充分とは言えない。

自立人生を終えれば社会人としての新たな人生が始まる。
これが現役人生だ。
自立人生では自分の成長に専念することが許されたが
現役人生では
家庭に責任を持ち、社会のために役立つ生き方が求められる。

自分の欲望を満たすことを主体とする人生から
他者の欲望を満たすことを主体とする人生への転換が求められる。
欲望主体生活から愛情主体人生へ変わらなければならないことになる。
生存主義(欲望主義)から愛情主義への転換とも表現できる。

自分のために生きることから
他者のために生きるようになっていれば
大人になった証明である。

結婚前の女性が一人で買い物に行き、
自分で料理して自分で食べれば
それは単なる食欲を満たす行動であり欲望行動とみなされる。
ところが結婚して、買い物に行き、
夫に喜んでもらいたいと夫のために料理を作れば
夫に対する愛情行動となる。
子供のために尽くせば子供に対する愛情行動となる。

現役人生では
妻や子供、更に社会に対して
如何に喜びを与えることができるかが中心となる。
喜びを与えるには相手の欲望がどこにあるかを知り尽くして
的確に応えなければならない。

家庭、社会、国家へと責任を持つ範囲が大きくなれば
それに応じて大きな愛情と評価される。
愛情の空間的な広がりが評価されることになる。

更に、勇退人生では愛情の範囲が立体的になる。
空間的な広がりから時間的な広がりへと拡大される。
孫や未来に対する愛情へと傾いて行く。

現役人生は現代に責任を持つことが中心だが
勇退人生では未来に責任を持つことになる。
人生の終わりを前提としての愛情となるからだ。
築き上げた経験や知識、技術、財産など全てを
次の世代へ如何に受け継がせるかが最大のポイントとなる。

現役人生は日々挑戦に明け暮れる。
初めて経験することばかりである。
大げさかもしれないが
男が一歩家を出れば7人の敵と戦って勝たなければならない。
荒海を乗り越えながら妻子に責任を持ち、
社会的責任を果たさなければならない。

自立人生は一人前になる挑戦だが、
現役人生は達人になる挑戦である。
技術の粋を究める挑戦で技術の達人を目指し、
子供を育て社会に責任を持つことで愛情の達人を目指す。

勇退人生は荒海から既に解放されている。
馬車馬のように働いた日々は過去へ過去へと押し流され
今では凪の海面に揺られながら悠然とした人生に入っている。
智恵の宝庫であり、経験は豊富であり、少々のことでは動じない。
何事も達観でき、海よりも深く空よりも高い愛情で
全てを見つめることができる。
見返りを期待しない、ただ与えるだけの仙人のような存在となる。
全てを見通す眼差しは優しさに溢れ
それでいて
大いなる威厳に満ちている。
勇退人生をイメージすればこのようになる。

お父さんの子供に対する愛情と、
おじいさんの孫に対する愛情では質が違う。
お父さんは熟れつつある柿だが
おじいさんは熟した柿と言える。

勇退世代は熟れてやがて落ちるしかないが
立派な種をたくさん残すことができる。
来年の新しい芽はここから始まる。

勇退人生には現役人生よりももっと大切な仕事が残っている。
熟した経験や智恵、財産を如何に次世代へ継承させるかだ。

どんな金持ちも、どんな技術者も、どんな智恵者も
死ぬ時には全てを地上に残して行かなければならない。
立派な後継者を持てなければせっかくの結実が
活かされずに終わる。

人生最後の仕事は立派な後継者を育成することにある。
去ってゆく勇退世代はこれから始まる自立世代に
全てを受け継がせなければならない。
これこそが人生最後に注ぐことができる最高の愛情である。

勇退世代は
円熟した智恵と経験と豊かな資産がありながら
体力はどんどん衰えてゆく。
自立世代は
若さと体力があっても智恵と経験が足りず資産がない。
勇退世代と自立世代は相互に補完しあうのに最適な関係にある。
勇退世代は持てる力を結集して
自立世代に希望ある未来を残す責任がある。

整理しよう。
自立人生は自分を一人前に完成させることを第一義に考えるために
ある意味自己中心とならざるを得ない。
自己中心と言えば悪い意味で使われるが
自立過程においてはそうならざるを得ない必然性がある。
赤ちゃんが母乳を求めるのは
自分の欲望を満たすことしか考えておらず
自己中心であり欲望主義だが
それは絶対に必要なことである。

しかし、現役人生や勇退人生においても自己中心なら
人間として失格である。
一人前になっていないことになる。
他者に貢献する生き方に生き甲斐を感じなければ大人とは言えない。
つまり欲望主義から愛情主義へ飛躍できなければ
一人前と言えないのだ。

愛情と犠牲
母親は子供のために乳を与え、
夜昼面倒を見なければならない。
自分の思うままに生きることができないだけ犠牲を強いられる。
しかし愛情はその犠牲を苦痛ではなく
却って喜びと感じさせる力を持っている。
既に述べたとおりだ。

欲望主義が自己を主体とするのに対して、
愛情主義は他者を主体として自己を犠牲にする。
つまり、自己の欲望を抑えながら、なお幸福感を感じる。
自分が食べて喜ぶ喜びと、
愛する夫に与えて喜ぶ姿を見て喜ぶのでは次元が違う。
欲望を満たす喜びと、愛情による喜びは質が違うのだ。

電車に轢かれそうになった人を助けようと
危険を顧みずに線路に飛び込んだ人がいる。
立派な人だとマスコミは称える。

もし、欲望主義あるいは生存主義が人生の本質なら
危険を顧みずに飛び込んだ人は愚かな選択をしたことになる。
危険なのは他人であって自分ではない。
何故、かけがえのない自分の生命を顧みず、
他者の生命を救おうとしたのだろう。
自分の生存を疎かにした行為に、
立派なことだと誰もが称え、愛の深い人だと何故賛美するのだろうか。
自分の欲望を優先する欲望主義(生存主義)と
他者のために尽くす愛情主義ではどちらが人間の本質なのだろうか。
どう考えても、
愛情主義をより重要な考え方と捉えているようにしか見えない。

少なくとも、
他者を犠牲にして自分を優先する人を
立派な人と評価する人はいない。
それは昔からのことだ。
立派な人の代表は聖人と呼ばれる釈尊やイエスなどだろう。
表現は違ってもその主張は
「自分の欲望より他者のために生きることを優先しなさい」
と教えている。
慈悲や愛など表現はともかく、愛情主義を教えている。
禁欲、自己否定など生存主義を抑えることが修行となっている。

愛情の格位
他者のためと表現したがその他者の範囲が広くなればなるほど
愛情の格位が上がる。

周辺のために尽くして得られる評価は善人と呼ばれる程度だ。
国家のために犠牲になった人は英雄と呼ばれる。
人類のために尽くした人は偉人と呼ばれる。
ところがその上を行く人物がいる。
聖人と名付けられた人だ。

聖人という呼称は
「人類よりも広く大きな存在のために尽くした人」
に与えられている。
宇宙を覆う何らかの人格的存在に目覚め、
その願いに生きた人を聖人と呼ぶようだ。
神、仏、アラーなど呼称は異なるが
宇宙の背後に何らかの人格的存在を認める点は共通している。

宇宙の本質、歴史の本質とは
さて、宇宙の成り立ち、その歴史を捉えるにあたり、
そもそも宇宙の根本は何かに突き当たる。

生存主義
とにかく生き残ることが全てであり
勝つことが全てだと考える人がいる。
生物で言えば、
弱肉強食の原則においてとにかく勝たなければならないし
生き残らなければ何も始まらない。
常に勝ち残ったものだけが支配者になり未来を切り開く権利がある。
だから「闘いに勝つこと」「環境に適応すること」
これこそが宇宙の根本の根本であると主張する人がいる。
生き残ること、勝つことが本質なら
欲望主義、あるいは生存主義こそが宇宙の本質となる。
唯物論者、無神論者、共産主義者などと呼ばれている人達は
闘争こそ歴史の本質であると捉えている。
彼らは
宇宙の背後に人格的な何者かが存在するとは決して認めない。
あるのは初めから最後まで物質だけだと主張する。
この考え方によれば物質の歴史の中で
偶然あるいは突然の現象により原始生命が発生し、
環境に適応したものだけが生き残って来たと考える。
適応したという言葉には
他の生命との闘いに勝つことも含まれており、
環境の変化の対応にも勝つことが含まれている。

正義とか愛とかの観念は
勝者が勝手に決めたことであり、
絶対的なものではないと主張する。
闘いに勝ったものだけが生き残り
支配者となってきた歴史的事実こそが
その本質を表していると考えている。

つまり
歴史の本質は生存競争に勝つことであり、
当然、敗者には未来がないと捉える。
動物世界の弱肉強食こそが本質であると考えるのだ。
進化の本質がそうであると考えれば
進化の延長線上の最先端に立つ人間もその原則から逃れることはできない。
つまり、
人間世界もまた弱肉強食の闘いに勝つことが全てであり
企業戦争も、国家の争いも勝たなければ意味がないという結論になる。
勝てば官軍、負ければ賊軍である。

愛情主義
逆の考え方がある。
宇宙は闘争ではなく、絶対正義、絶対愛こそが本質であるという考え方だ。
そもそも宇宙の始まりあるいは宇宙の基本として
絶対人格を認める多くの人が存在する。
宇宙を貫く絶対正義があり、
絶対的愛情があり、
絶対的人格があると考える人達だ。

彼らの主張に基づけば、
如何に醜い戦争の歴史が続いてきたとしても
それは何かが狂った結果であって
いつの日か正義と愛に満ちた平和な世界が実現するに違いないと考える。
この考え方は、
愛情主義こそが宇宙の本質であると主張していることになる。

絶対人格を
ある人は神と名付け、
ある人は仏様と呼び、
ある人はアラーの神と
呼んでいるのかもしれない。
宇宙の本質を精神的な存在であると考える人は
愛情主義を基本として考えていると言える。

この2つの主張はそれぞれ無数に枝分かれしながら闘ってきた。
どちらも決定打を持たないまま
今日においても相変わらずの状況だ。

しかし、この問題はいい加減に扱うことはできない。
宇宙の本質が愛情主義なら愛情主義で対応しなければならないし、
生存主義なら生存主義で対応しなければならない。
人生の根幹に影響することでもある。

愛情主義こそ宇宙の本質
WHIは徹底した研究の結果、愛情主義を選択した。
生存主義はある段階までに必要なものであり、
最終的には愛情主義こそが基本となるという結論だ。

既述の例で言えば、
赤ちゃんは生存主義で生きて当然だし、そうでなければならない。
しかし、一人前になっても生存主義で生きるとすれば
それは未熟者扱いとならざるを得ない。
甘柿が成長段階では渋くとも、
熟すれば甘くなければならないようなものだ。
熟してなお渋ければそれは失格となる。

動物の弱肉強食は一見むごいことのように見えるが
強者は繁殖力が弱く、弱者は繁殖力が強い。
全体でバランスが取れるようになっている。
どちらを除去してもうまく行かない。
自然に任せる以外にうまく行かないというのは経験上の結論である。

強者を悪者扱いにして除去すると
弱者が異常繁殖してその生態系自体が破壊されることも分かっている。
それぞれの生存のためにそれぞれの存在が必要であるいう事実は
一見、生存主義に見えることも
お互いの生存を支えあっているとも言える。
もっと高い次元で見れば愛情であるかもしれないのだ。

過去には存在したが現在では存在しないものもある。
恐竜は今では形を変えてその名残は存在していても
巨大な恐竜自身は存在していない。
物事の発展にはある段階にだけ
臨時的に存在してその時期が過ぎれば不要になるものもある。
何故、宇宙の歴史がこうなってきたのかは
宇宙の本質をどう捉えるかによって
見解は変わる。
WHIは明快な見解を持っているがここではそこまでは話題にしない。
ここでは「生存主義と愛情主義」のテーマにそって進めたい。

人間社会にも競争は常に行われており、
弱肉強食のような現象はいくらでもある。
生存競争の嵐に襲われているのは事実だ。
しかし、
この生存競争も実は愛情主義に基づいていると言えるのだ。

医者がいるとしよう。
誠実に努力して立派な技術を持った医者といい加減な医者では
当然のこととして良い医者が残るはずだ。
そうでなければ困る。

赤ちゃんを助けるために母は愛情を持って世話をする。
同じように、
「技術のない医者でも潰れればかわいそうだから
なんとか助けてあげましょう」と言ってよいだろうか。
それは愛情主義の趣旨に添うのだろうか。

患者さんを本当に愛するなら
最高の医者になろうと努力を惜しまないはずである。
つまり、
生存競争は中途半端やいい加減なものを淘汰して
立派なものを社会に提供する愛情主義の一側面と言える。

愛情と言えば何でも優しくすればよいものではない。
子供を厳しく叱って鍛えるのも愛情である。
試験により
優秀な結果を出させようと動機づけることも愛情である。

弱肉強食という視点から見ると、
「弱者は食われて滅びる」という事実でかわいそうに映るが
生存競争は最高のものを残すための一つの仕組みと言える。

いい加減な製品を使いたい顧客はいない。
最高の商品を買いたいのは当然だ。
いい加減なものを作れば淘汰されるのは
悲しいことではなく当然のことであり
それが顧客を真に愛することになる。
メーカーから見れば
生き残れる商品を造ることが
顧客を喜ばせようとする愛情の勝利と言える。

ルールを無視した悪逆無道な勢力に支配された歴史がある。
人類歴史は悲劇に満ち満ちており悲しいことだ。
生存をかけて殺し合いを続けてきたのだ。
どうしてこのような悲劇が延々と続いて来たのだろうか。
愛情主義まで到達できなかった未熟な人類が
生存主義を振りかざして欲望のままに暴れまわったとしか言えない。
しかし、生存主義そのものが絶対悪なのではない。
生存主義が支配者のように振る舞ったことがいけないのである。
生存主義は愛情主義への過程的現象であり、
愛情主義を補完するものであるという認識が必要だ。
このような問題を解決するには
人間が生存主義から愛情主義への飛躍を果たす以外に
ないと言える。

現代においても生存主義こそが
宇宙の本質でありそれが全てである
という考え方を採用する国家が存在する。
共産主義国家はその例だ。
北朝鮮、中国はまさしくそのような国である。

彼らにとっては正義とか愛とかはまやかしであり、
便宜上の観念でしかない。
生存のために、
弱い間はおとなしくしながら相手を利用できるだけ利用して強くなり、
相手が弱った頃合いを見計らって襲いかかるべきであるという考え方だ。
著作権とか、領土所有権とか全ては臨時的一時的な都合上のものであり
闘いに勝てばいくらでも変更可能であると解釈する。
勝ったものの都合で決めたことが正義となる。
ルールも変わると彼らは考えている。

日本の和の伝統
日本人は和の精神を中心として歴史を綴ってきた。
宇宙の背後に存在する絶対人格を
どの程度認めているかは定かでないが
自分のことより相手のことを先に考える伝統は
愛情主義に近い。

日本人は何かあると
「自分が悪いのではないか、
自分が責任を取らなければならないのではないか」とまず考える。
「まず責任を取ろう」とする考え方も
愛情主義に近いことを示している。
責任を取ることを大人の証しと考える国民性だ。
そのような国民性は今の世の中では珍しいほうだ。
愛情主義を本質とするという観点からは
非常に貴重な国民性である。

「とにかく悪いのはお前で正しいのは自分である」
という基本的思考回路を持っている国が多いのは事実だ。
欲望主義、生存主義の典型的な特徴だ。
この考え方をそのままにして
平和な世界を造ることは不可能だ。

聖人と愛情主義
立派な教えを残した聖人の生涯を見よう。
孔子は74歳、釈尊は80歳で亡くなっている。
現在ならいざ知らず遠い昔に
この年令まで生きたこと自体、素晴らしいと言える。
逆を言えば、
これだけの時間をかけて世界改革に挑んだ生涯だったとすれば
人生としては本望だったと結論付けなければならない。

聖人としては極端に若死にしたのが
キリスト教の開祖イエスである。
イエスは33歳で十字架で殺害された。
それも自分の犯罪によるものではない。
無実であったことは明白と言われている。

WHIは何もイエスを特別扱いはしないが、
愛情主義という観点からは一言触れたい人物である。

イエスはその生涯をかけて
「愛情主義こそが人生の本質であり、宇宙の本質である」
ことを訴えようとしていたと考えられる。
「汝の敵を愛せよ」、
「迫害するもののために祈れ」、
「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」
など、極端とも思われる教えを残している。
教えだけでなく大変な拷問と迫害の上、
十字架で殺害されながらも、
人類に対する愛を最後まで貫いたのだ。

生存主義を本質と捉えるなら、
「敵とは命がけで戦って勝利しなければならない」
「迫害するものを迫害せよ。」
「右の頬を打たれたら何倍も打ち返せ」
でなければならない。

イエスの死から2000年の歳月が過ぎたが
彼を信ずるクリスチャンの数は20億を超えるらしい。
世界最大の信者数を誇っている。
イエスの生き方、考え方は人間の本質を突いているに違いない。

自分が助かるために他人を犠牲にすれば非難される、
自分を犠牲にしてまで他人を助けた人は立派だと評価される。
この単純な事実はどこから来るのだろうか。

アメリカを中心とする市場主義は
生存競争主義を根幹に据えている。
ある時期まではよく見えても
ある段階まで来ると矛盾だらけとなる。
生存競争を柱として
勝ったものだけが豊かになるという主義は
破綻に向かっているように見える。
そもそも、地球環境自体が持つかどうかが疑わしい。
生存主義はある段階まで必要であるがそれ以上においては
愛情主義でなければならない。
市場主義は愛情主義を前提として価値を発揮するに違いない。

闘いに勝った人は
強い人、すごい人とは評価できるが
立派な人と評価できるとは限らない。
立派な人とは
その結実を愛情主義に投入できた人のことである。

日本はバブルに酔いしれた頃、
経済大国と呼ばれて悦に入っていた。
エコノミック・アニマルと呼ばれた。
大変な金額を世界に投入したにも関わらず
世界の評価を得られなかった。
それは一見愛情主義のふりをしながら
結局は生存主義を根拠にしていたからである。

3.11の悲劇の中で避難生活が始まった。
あのパニック状態においても全体のことを考えて
秩序整然とする日本人を見て世界が感動し拍手した。
それは、愛情主義を貫く心の姿勢を見たからである。
バブルの絶頂期よりも困難期において感動を与えている事実は
ある意味皮肉である。

日本のバブルが弾けて久しい。
日本人はあれは夢だったのかと回想し、
あの夢をもう一度と叫んでいる者もいる。
もっと大事なことに開眼しなければならないと訴える者もいる。

経済大国という言葉も、
軍事大国という呼称もあまり誇れるものではない。
お金がたっぷりあり、
腕力が強いことがそんなに誇らしいことだろうか。
それよりも人格において、
あるいは人として
人間性を高く評価されたほうが
誇れるのではないだろうか。

日本は愛情主義に基づいて人格大国となるべきである。
心の豊かさで世界一になるべきである。
その上でいろいろな大国になることは構わないが
人格でみすぼらしければそれは何の意味もないことだ。

愛情主義を人生の本質として捉える生き方を
WHIでは人格主義人生と呼ぶ。
WHIは
人格主義を教育の柱とした新しい教育制度に取り組んでいる。

関心を持たれる方は、WHIに問い合わせて欲しい。