人間とは

「人間とは一体何だろう?」有史以来の哲学的疑問だ。人間が何者であるかが分からないまま、人間の構成する家庭や社会、歴史について分かろうとすることは初めから無理な話と言える。

永い間、人間は弱肉強食が横行する時代を通過してきた。いや、それは、今なお、続いていると言える。

「人間は野獣である」と誰かが主張すれば、「なるほど」と納得の行く場面をいくらでも発見することができる。ヒトラーは600万人にも及ぶユダヤ人を大量虐殺したし、ルワンダにおいても100日間で100万人もの人が殺された。1994年のことだ。

ヒトラーにも赤ちゃんの時代があったし、青年時代もあった。ルワンダの虐殺事件も同じ村に住んでいた住民によるものだ。彼らには特別な牙が用意されているわけでもないし、頭に角が生えているわけでもない。どこから見ても一人の人間なのに、どうしてそんな恐ろしいことができるのだろうか。
そもそも、戦争は人間を殺すことを目的として出かけるのであって、ライオン狩りに出かけるわけではない。

大量虐殺の話を聞けば、「人間としてどうしてそんなことができるのか」と多くの人が理解に苦しむ。しかし、このような虐殺事件は初めてのことでも、珍しいことでもない。歴史にはそのような事実がぎっしりと詰まっているのだ。

最近の日本では、母が子供を殺したり、その逆があったり、バラバラ殺人事件が頻発したりしている。数が多いか少ないかの違いはあっても、ヒトラーとどこが違うだろうか。その本質は同じに違いない。

貿易センタービルに旅客機が激突して大変な悲劇が発生したが、これはうっかりやミスによって起こった事故ではない。用意周到に計画して大変な努力と訓練の結果として引き起こされた作為的事件なのだ。アメリカという国はそれほど憎まれた国家なのだろうかと考えがちだが、もし、オウムによるサリン計画が途上で発見されずに、何トンも東京上空から撒かれていたらどれほどの悲劇となっていただろうか。同時多発テロ事件など影が薄くなっていたに違いない。日本も何ら変わりはない。

麻原彰晃は、計画的に人を殺し、サリンを製造させ、ヘリコプターを準備し、東京せん滅をもくろんでいたのだ。事故でもなく、うっかりでもなく、まさに計画的犯行として進められていたのだ。

一体、人間はどうしてこのようなことができるのだろうか。体の病気なのだろうか、脳の病気なのだろうか、心の病気なのだろうか。いや、それともこれが人間の本当の姿なのだろうか。

ライオンに説教して、「動物を食べるのを止めて草で生活してくれ」と要求できるだろうか。
草食生活をライオンの本質とするように説得できるだろうか。まず不可能に近いだろう。なぜなら、ライオンは生まれながらに肉食を本質としているからだ。

人間に対して、どれほど多くの説教がなされただろうか。争うな、嫉妬するな、盗むな、殺すな、広い心で愛し合いなさい、助け合いなさい・・・。
あるいは預言者、あるいは宗教家、あるいは哲学者が、人間を少しでも高めようと大昔から人間に向かって叫び続けて来たことは事実だ。
孔子も、釈尊も、イエスも、マホメットも人間社会を平和にしようと叫び続けた。今なお多くの人に、心の師として大きな影響を与え続けている。

彼らの叫びから既に千年単位の時が流れた。今や、コンピューター時代となり、インターネット時代となり、宇宙時代となった。しかし、人間の姿はどれほど進歩したのだろうか。

人間の殺意を実行するのは手であり足である。その手に刀が握られていれば、切り殺すという行為が姿を現す。その手に、機関銃が握られていれば、瞬時に多くの生命が奪われる。
その手に核兵器があれば、恐るべき大量殺人が瞬間の内に発生する。
心の中に潜む悪意が科学技術の発展に伴ってそのスケールを際限なく広げて来たのである。
悪意は同じでも、その影響範囲は技術の発達とともに広がってきたのだ。

技術の発達の恐怖を抑え込もうと、「北朝鮮には核を持たせないようにしよう」と必死になっているし、「テロリストに核が渡らないようにしよう」と真剣になっている。あるレベルの解決になるかもしれないが根本的解決にならないことは誰もが知っている。

また悪意にも見解の相違がある。ヒトラーは悪いことをしていると自覚しながら大量殺人を起こしたのだろうか。世界同時多発テロを引き起こしたテロリストという表現は、攻撃された側がつけたものであり、実行した部隊は「聖戦に参加した英雄である」と認識している。悪いことをしたという認識はみじんもないのだ。悪意か悪意でないのかの判断にも深い洞察が要求される。

「人間は、ライオンと同じように弱いものを見つけたら襲い掛からずにはおれない存在である。」と定義してよいのだろうか。
進化論は教えている。「生き残りに成功したものだけが次の時代の支配者になれる。だから、生き残ることが最優先されるべきであり、それが正義である。」と。そこには策略も、うそも、謀略も許されることが暗に示されている。

人間とは一体何か?人間の本質は悪なのか?人間は生き残ることに意味があるのか?
力ずくの正義がすべてを凌駕するのだろうか。人間らしさとはどこにあるのだろうか?

もし、「人間は野獣のようなものである」、いや、「野獣よりも始末の悪い存在である」という定義が正しいなら、無駄な平和運動は止めるべきであり、野獣として野獣らしく生きることを考えなくてはならない。弱いものを見つけては襲い掛かる人生こそが本質に一致した生き方に違いない。

動物の世界では、だましが一つの生き残り戦略となっており、強いものが弱いものを支配するということが前提となっている。
「人間は動物とは違う」と片方で主張しながら事実は、「動物にも劣ることがあまりにも多い」。
蜘蛛は巣を張るが、その糸は透明となっている。見えないようにだましている。敵をだまそうとする戦略は数えきれない程である。

さて、再び問う。人間とは一体何だろう?人間の本質とは何だろう?
再び繰り返そう。
「人間は野獣である」という定義が正しければ、戦争を肯定しよう。狩りをしないライオンはいないのだから。
うそも、だましも積極的に活用しよう。動物の世界では常識のことだから・・・。

人間は動物の延長に位置しており、だましも、うそも、弱肉強食も生きる戦略として致し方ないという結論も一見説得力があるように見える。

人間の歴史において、暴虐極まりない醜い歴史が大半であったことは事実として認めざるを得ないが、もう片方において、それでも、それでも人間を人間としてあるべき姿に戻そうと生涯をかけた人たちがいたこともまた事実である。
俗人の大海の中で、聖人として誰もが称賛せざるを得ない生き方を貫いた数少ない人たちがいたことも事実なのだ。
公的な幸せの為に、自己を犠牲にしながらも感謝で尽くした人たちは、そのレベルにおいてあるいは偉人、あるいは聖人として歴史に名を残して来た。

公的な幸せの為に、自己を犠牲にしながらも尽くした人と、自己の利益の為に他人を犠牲にした人と、はたしてどちらが人間の本当の姿なのだろうか。どちらが人間の本質に即した生き方なのだろうか?

極と極の相反する生き方を目の前にしながら、WHIは「人間とは何か」の基本的見解をどこに置くべきかを模索した。
もちろん、WHIは明確な見解を持っている。そしてその見解を広く世に問いたいと思っている。

今、世界は言うまでもなく、日本もまた未曾有の混乱の時期を迎えている。戦後の日本には明確な目的があった。無条件降伏という惨めな状況から如何に脱却するかを求めて、一心不乱に走ってきた。それなりに、達成感を得た。そして今、今後の日本はどこに行くべきかを模索している。
日本の若者は外国へ行きたくないらしい。冒険心や挑戦意欲を失ってしまったらしい。ひきこもりも大変大きな問題だ。高齢化社会はどんどん進み、少子化は日本の未来に暗雲となっている。

中国や発展途上国が今、目覚ましい勢いで成長を遂げているが、これもある限られた範囲に終わることは明らかだ。やがて賃金は上昇し、飽和し、いつか、競争力を失う日が来る。
誰かが通った道を別の誰かがまた通っているだけのことである。

どこまで行っても堂々巡りなのには理由がある。人間社会の基本である「人間そのものが一体何か」が不明なままであるということだ。基本をあいまいにして何かを築いたとしても、その結果もまたあいまいなものになるのは必然だ。

心ある各位の真摯な探求を期待する。人間とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、そもそもの疑問を共に究めようではないか。

 


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