価値の実体

新幹線に乗ろうと思えば切符を買うことになる。数万円のお金を払って渡されるのは小さな紙一枚だ。どう考えても、この紙切れ一枚の切符が数万円もするとは考えられない。しかし、誰も、切符一枚のためにお金を払ったとは考えていない。この切符があれば新幹線に乗れるという事実を含めて納得している。
新幹線が正常に運行していれば、切符に意味があるが、もし不通になれば切符の価値は消滅し、払い戻しを請求することになる。ここに象徴的価値と価値の実体という概念が浮かんでくる。もちろん、切符の価値は象徴的なものであり、新幹線こそが価値の実体である。価値の実体こそが価値そのものであり、その価値がなければ象徴としての切符は全く無意味となる。

物々交換時代には価値の実体そのものが直接交換の対象となったが、便利さを追求して、貨幣が登場するようになった。貨幣は切符と同じように象徴的価値を担っているのであり、価値そのものではない。しかし、現代社会ではその象徴的価値が実体の価値を無視して暴走しているように見える。切符だけが行ったり来たりして価値の実体とは無関係に利潤を出しているのだ。その横暴の故に価値の実体までが破壊される現象をたくさん見て来た。金融業はあくまでも象徴的価値のやり取りであることを自覚すべきである。

お金がたくさんあれば何でもできると思われているようだが、実際、お金そのものには何の力もない。一億円の貯金を持って無人島に暮らすとしよう。病気になったからといってお金は何もしてくれない。病気に適切な対処をしてくれるのは医者であってお金ではない。お金があれば家は建つと思うかもしれないが、お金は家を建てる能力を持っていない。あくまで家を建てるのは大工である。つまりお金は、医者がいてこそ価値を発揮できるのであり、大工がいてこそ価値を発揮できるのである。価値の実体があってこそ、象徴的な価値を持つお金に意味があるのであり、そうでなければお金は何の意味も持たない。

医者には「病気を見抜いて適切な対処ができる」という価値の実体となるための根拠がある。大工には「材料を組み合わせて家を建てることができる」という価値の根拠がある。
そもそも価値とは何だろうか?それはニーズを満たす力であると言えるだろう。目的に対する有用性と表現しても同じだ。

病気になった人は、何とか病気を克服したいと考える。病院を訪ねることになる。「どのような目的で病院に来られましたか?」と尋ねられる。私が来た目的は「胃の痛みを解消したいのです」、と答えたとしよう。もし、治療の結果、目的が達成されれば、この病院は私にとって価値あるものとなり、何の解決にもならなければ、無意味なものとなる。
目的に対してきちっと応えてくれれば価値が高く、そうでなければ価値は低くなり、極端な場合は無価値あるいは有害となる。目的に対する有効度がそのまま価値評価となる。

戦後、日本は経済発展に向けて馬車馬のように働いてきた。世界中のどこにでも出かけ、学ぶべきことは学び、活用できるものは何でも活用しようと一心不乱に走ってきた。その結果、困難に負けず、知恵の限りを尽くし、不屈の信念を持って挑戦する基本的能力が磨かれた。メイドインジャパンは信頼できないものの代名詞から優秀を意味するものへと一気に飛躍した。

さて、戦後の日本を担ってきた団塊世代が一気に退職する時代を迎えた。やがてはこの世から消えてゆくことになる。日本の抱えた借金は800兆円と言われる。団塊の世代が中心となって蓄えた資産は1400兆円らしい。単純計算すれば600兆円の余裕資金ということなのだろうか。

お金を受け継いだとしてもそれは切符の相続と言える。切符は価値の実体があってこそ意味を持つことは既に述べた。ところが価値の実体は、自然の産物であろうと、技術の結晶である機械であろうと有用性があれば問題ないが、何と言っても後継者育成こそが最大の意味を持つ。後継者に受け継がれた価値の実体は人間の持つ応用力によって無限の発展性を秘めているからだ。ところが日本では少子化が大きな問題となっている。うつ病は増加し、ひきこもりが大変大きな問題になっている。日本の若者は海外へ出ることを嫌っているらしい。価値の実体を受け継ぐべき未来が弱体化しているのだ。

団塊の世代には戦後のノウハウが凝縮されている。団塊の世代こそが価値の実体である。経験や知識や知恵は相続されなければ団塊の世代の死と共に消滅する。団塊世代の、頭脳に、手に、体に凝縮された価値の実体は死と共に消滅する。お金は残されても価値の実体が消滅すれば、お金の価値も無意味となる。

突き詰めてゆけば、価値の実体を常に高め、きちっと次世代に受け継がせ、世界のニーズに応えるという三要素を常に忘れないことが肝要となる。世界のニーズに応えるためには、世界水準の上を行く知恵や技術を常に持ち続けなければならず、そのための努力を怠ってはならない。信頼度と知恵と技術こそが価値の実体の直接的根拠なのだ。繰り返すが、「価値の実体なくしてお金は無意味」である。

植物にしても、動物にしても、その生涯の最終目的は子孫を如何に繁栄させるかに尽きる。弱肉強食の厳しいルールを跳ね除けながら、「如何に立派な子孫を残すか」に全力を投入している。鮭は何ゆえに、故郷の川を遡上するのだろうか。熊に襲われ、鳥に襲われ、人間に捕獲されても、意に介せず、食べ物もとらずに、ただ一心不乱、遡上する。その目的は産卵にある。事実、鮭は産卵を終えてその生涯を終える。

戦後の日本は子供に目的を置かないようになった。その表れが今の少子化となっている。子供に投入するより、自分に投入したいと考えるようになり、快適な生活環境を優先するようになった。さらにそのような姿勢はそのまま子供たちに知らず知らずのうちに影響を与える。子供の存在がどのくらい期待され、重要視されているかは空気で分かるものだ。いつの間にか学力は落ち、ハングリー精神は失われ、責任感は弱まり、ちょっとの困難にもくじけるようになってしまった。

受け継がせる側にも責任はあり、受け継ぐ側にも責任はある。受け継がせたいと願っても、受け継ぐ側にその気がなければ相続は不可能だ。中国を始め、新興国家の若者は、必死で学び取ろうとする気迫に満ちているが、日本の若者にはそのような姿勢が見られないというのだ。学び取ろうとする気迫こそが要となる。企業秘密として教えたくないことでも、学び取ろうとする気迫があれば、あの手この手でいつの間にか盗まれるのが常である。戦後の日本にはそのような気迫が満ち満ちていた。

三つ子の魂百までもということわざがある。子供の人生の動機づけがどのようになされるかは、その後の人生に大変大きな影響を与える。国家のビジョン、社会の空気、家庭環境は知らず知らずのうちに子供たちに良くも悪くも大きな影響を与える。
社会全体で子供たちへの動機づけができなければならない。価値の実体の相続者として、かけがえのない存在として期待されている事実が、日々の生活の中で感じられる空気が必要なのだ。

価値の実体を生み出し、磨き、高めて行くには、国を挙げ、社会を挙げ、家庭を挙げて、立派な人材育成に投入し続けるしかない。「立派な」という意味には、信頼度と能力度の二つにおいてすぐれていることが含まれている。

世界のニーズに応えることができなければ、世界において価値を表すことはできない。国家のニーズに応えることができなければ、国家に対して価値を表すことはできない。如何にニーズに応えることができるかが価値の原則なのだ。

ニーズに応えるどころか、害を与える存在もある。北朝鮮はなぜ嫌われるのだろうか。オウム真理教はなぜ嫌われるのだろうか。それは自己のニーズだけを優先して社会に害を与えるからである。

信頼されるには、社会のニーズに対して、「継続的に」応えなければならない。時々、応え、時々、反するようでは半信半疑の対象となってしまう。まず第一に動機が社会のニーズに誠心誠意応えようとするものでなければならないし、その上で、事実が一致しなければならない。そしてそれを継続する必要がある。初めから動機に悪意があるなら言語道断だ。

団塊の世代は今、一気に退職しつつある。だからと言って、すぐ消滅するわけではない、現役を離れて悠々自適な生活を描いている人もいるかもしれないが、そう悠長なことも言っておれない。戦後築き上げてきた価値の実体を如何に若者に受け継がせるかに命がけにならなければならないのだ。「せめて資産を残すから」は団塊世代の体に集約された価値の実体の相続にはならないのだ。まだ元気なうちに、少しでも多く、若者に受け継がせる対策を緊急に練らなければ未来の日本は大変なことになる。

人は、生まれ、成長し、最も活躍できる時代を迎え、その後、徐々に衰えて最後には消えてゆくのだ。それが宿命だ。だからこそ、元気なうちに、未来を担う新芽を生み出し、育て、受け継がせることになっているのだ。その基本的な原則を踏み外すことのないように最善を尽くすことが肝要なのだ。
象徴的な価値であるお金ではなく、価値の実体にこそ目を向けようではないか。

アメリカは歴史の短い国である。過去がなにかと重要視されるヨーロッパの歴史の因習から解き放たれた新天地として登場した。パイオニア精神が鼓舞され、アメリカンドリームを生み出した。アメリカ建国者たちは自らの中に挑戦意欲、冒険心、想像力、創造力を燃やし続けた。価値の実体そのものがアメリカを発展させたのだ。ところがひとたび成熟すると、価値の実体ではなく貨幣という切符をコントロールすることによって利益を求めようとするあぐらシステムに陥ったのだ。実体と象徴には天地の差がある。あくまでも実体こそが本質であることを忘れてはいけない。実体の価値を無視して象徴に心を奪われるようになる時、滅びの門は開き始める。
戦後の日本もまた価値の実体を重要視する時代から、いつの間にか象徴的価値である切符へと重心を移動してしまった。賃金の安い中国へと工場を移せば儲かると考えたが、価値の実体が失われる危険性まで認識できなかったのだ。象徴のお金を儲けようとして、いつの間にか価値の実体を失ってしまったのだ。

富士山の頂上は頂上だけで成り立っているのではない。すそ野があり五合目があってこそ頂上があるのだ。頂上が大事ならすそ野も大事にしなければならない。すそ野こそが価値の実体であり、お金は頂上に積もった雪に過ぎない。
建築物がしっかりできるかどうかは基礎工事によって決まるのだ。どんなに頭が優秀でもその頭を支える足腰がしっかりしていなければ無意味となる。優秀な頭脳を優秀たらしめるのは強力な手足であり体全体なのだ。

日本の国土はありがたいことに価値の実体を生み出す根拠として力に溢れている。種をまけば豊かな実りを生み出してくれる。砂漠ではないのだ。これだけでもどんなにありがたいことだろうか。夏になれば雑草でうんざりするのだが、それだけ大地に生産能力が秘められているということを示している。雑草も生えない地域から見れば、この上なく喜ばしいことなのだ。

日本は地下資源に乏しい。だからこそ、人材を資源とすべく価値の実体を人間に求めざるを得なかった。信頼できる有能な人材を国家の資産としたのだ。そのためには教育こそがすべての基礎となる。日本は寺子屋時代から教育に力を注いできた。

南太平洋に存在するナウル共和国はリン鉱石資源の恩恵で20世紀において夢のような生活を送った。病院は無料、教育費も無料、国民は働く必要なしで海外旅行も自由自在、まさしく夢のような繁栄を誇った。ところが20世紀後半にはリン鉱石が枯渇してしまった。一気に天国から地獄へ転落した。糖尿病は蔓延し、今では悲惨な国家となっている。
ルワンダは大量虐殺を逃れて200万人以上の国民が世界中へ難民となったが、それが今ではアフリカンドリームとなっている。100万人以上の人たちが世界中から祖国へ戻ったのだが、悲劇の中で、自立心、知恵、技術、人脈を確立して、それが価値の実体となったのだ。
ナウルは天然の資源を頼りにして、自分たちの体に価値の実体を築こうとしなかった。努力はしたかもしれないが、繁栄の中での取り組みは真剣さに欠ける。苦労に価値を置かず、知恵を磨かず、技術を高めなかった。それが、せっかくのチャンスを無にしてしまったのだ。
世界に難民となったルワンダ人は、世界に出て多くを学んだ。自分がしっかりする以外に道はないと最終責任を自分自身に置くことを学んだ。世界的視野から物事を見つめる視点を学んだ。必死にアイデアや技術を身に付けた。価値の実体をその体に徹底的に染み込ませたのだ。人間こそが価値の実体であり、人間こそがすべての基本となるのだ。

ミツバチの巣を破壊してみよう。ミツバチはかねてから打ち合わせができていたようにすぐさま修復にかかる。わずかの後には何事もなかったかのように正常に戻る。それはミツバチ自体にニーズを満たす技術力が内在しているからだ。価値の実体がミツバチ自体に内在していればこそである。

国民一人一人に、建築技術、医療技術、食糧生産技術その他諸々の技術が集約されていれば、国民総体としての生産能力は圧倒的となる。どんな震災が起ころうと生き残った者たちで再建は可能だ。象徴的な意味しか持たないお金がなければ、みんなで助け合えばよい。緊急事態において、お金を払ったり貰ったりする必要があるだろうか。お互い様の助け合いで何でも可能になるべきなのだ。価値の実体があればいつでも価値を生み出すことが他人の助けなしで可能なのだ。

ところが、価値の実体を軽んじて象徴的価値の貨幣だけで贅沢な習慣を身に付けた者たちに未来はない。価値の実体を自分以外に求めなければならないのだ。それが自由に整う平常な時なら問題はないだろう。しかし、異常事態、緊急事態においては信頼できる身近な範囲に価値の実体がどうしても必要となるのだ。
日本はもう一度、教育の重要性を再認識しなければならない。世界のニーズに対応できる技術力を身に付けさせなければならない。逆境、困難、緊急事態にいつでも対応できるだけの精神力と技術力を身に付けさせなければならない。

教育が重要であるという事実は誰も否定する余地はないが、問題は何を根幹として教育するかだ。教育の中身の問題が最も重要なテーマとなる。世界視野から見て信頼度と能力度を如何に高めるかにWHIは一つの解答を準備している。教育理念としてその広さ高さにおいて自負心を持っている。

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