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| ■満足はどこから来るか (2003年12月29日号)
先日ある広告で「○○を独り占めできます」というものを目にしました。よく読むと一人あたりへのサービスの量が豊富であることを強調しているのだと分りましたが、「独り占め」と何かしっくりとこないものがあるように思いしばらく考えていました。 「独り占め」とは、本来自己中心的な響きのする言葉です。ある決まった量を多くの人で分け合うのではなく、自分の分も他人の分も自分のものとしようとすることですから、もともと歓迎される言葉ではありません。 しかし、広告の世界ではありきたりのコピーでは目を引くことができず、ちょっと刺激的で目を奪われるものでなくてはならないのでしょう。時々そのようなコピーを見かけます。このコピーも、顧客の心理にある欲望をうまく駆り立てる効果を狙ったものだったのでしょう。しかしよく考えてみると本当に独り占めはメリットの多いことなのでしょうか。 こんなことがあります。パーティーなどで家庭ではめったに食べられない高価な料理が出たとしましょう。心の中で、「これはありがたい。めったにないことだから人より早く取って食べなければ」と思い。多少あさましいかと思いながらもそれをぱくぱくと口に運びます。よく噛んで味わう暇もありません。とにかくなるべく多く口に入れなくては、独り占めしなくてはと飲み込みます。そして、その皿が空になったとしましょう。果たしてその人には満足感が残るでしょうか。その料理はどんな形や色で、香りで、どんな味だったのか覚えているでしょうか。ただ胃が膨らんだだけになったのではないでしょうか。 さて、その料理を食べることの意味はどこにあったのでしょうか。人よりも多く胃を満たしたことは事実かもしれません。しかし、もともとおいしい料理を食べる目的は胃を膨らますことだったのでしょうか。その色や香りを楽しみ、味を楽しみ、そして幸せな気分を得ることだったのではなかったでしょうか。それを忘れて胃だけ満腹にし、挙げ句の果てには食べ過ぎて苦しいと言ってしまっては、全く欲だけを追求して不幸になるというミニパターンの証明を残しただけになってしまいます。 私たちは、自己中心的な気持ちになったときどうしても本来の目的を忘れがちになります。独り占めということも、一見得をしたようにも見えますが実は本来の目的からすれば決して得はしていないと思うのです。本当に得をしたと思うのは、他よりもっと物質としての分け前を多く確保した時ではなく、心に幸せな気分を持てた時です。 先程の例の場合、それを慌てて独り占めするよりもゆっくり味わい、その一つずつを大切に食べることができれば幸せな満足感を得られたのではないでしょうか。確かに胃の中に入った量は多少減るかもしれませんが。 私たちは、満足したいし幸せな気分を味わいたいと思っています。しかし、時として自分の取る行動が実はそれに反していることがあります。簡単に言えば、本当の目的とそれを実現する最適な手段を意識することを忘れている状態に陥りやすい傾向にあります。 人間の成長過程において、独り占めが許されるのはごく小さな赤ちゃんのときです。親を独り占めします。赤ちゃんが泣いたら、その欲しているものを察知しそれを満足してあげるしかありません。そのとき、赤ちゃんは与えてもらって満足しますが、親は与えている立場で満足しています。親は与えることで、赤ちゃんと喜びを分かち合っています。より次元の高い満足は独占する満足ではなく、与えて満足することではないでしょうか。 家庭では子供に、自己中心になってはいけないと教え、また子供もそれはいけないことだと思い育ちますが、その子供が大人になっていく段階において「あれ、世の中は結構自己中心なのかも」と思うときがあるかもしれません。素直な子供の気持ちがそのまま通用するような家庭や社会を造っていけるのは自己中心な人たちでなく、与えることによって満足感はもてるものだと言うことに気がついた人たちではないかと考えるのです。 メールマガジン編集部 |
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