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| ■代理出産に思う (2001年5月24日号) 長野の病院で代理出産が行われていたことが明らかになった。妻の姉妹が夫婦の受精卵を使って出産したと言うことだ。このような出産は米国では頻繁に行われているようだが、日本でこのような実施例が確認されたのは初めて。代理出産に協力したいと言う強い願いから実施したと医師は言っている。 いいことだ、いけないことだの議論も起きてきている。不妊に悩む夫婦にとっては、一つの朗報でもある一方、女性を出産の道具とするものだと反対する意見もあるようだ。簡単に、良い悪いと片付けられない難しい問題である。 そもそも出産することとはどういうものだろうか。子どもを産み育てると言うことの意味はどこにあるのだろうか。人間の赤ちゃんほど他の動物以上に手がかかる生きものはないし、またその期間が長い。そして、わがままとくる。大きくなると反抗もするし、お金もせびる。そんな大変な思いをして子どもを育てる。 しかし、そんな子どもに親は夢を託す。自分のできなかったことを乗り越えて欲しい。自分より立派になって欲しいと願う。思春期には恋に破れ傷ついていないかと心配し、不良にでも傾こうものなら、命がけで叱る。子どもを産んで育てると言うことは人生の真剣勝負だ。 子どもに恵まれた家庭は、好むと好まざるとにかかわらず毎日がそんなことの連続だ。失敗もあるし、成功することもある。嬉しいこともあるし、がっかりする時もある。子どもがいなかったらと考える余裕などないかもしれない。でもそれは、子どもを授からない夫婦からみるととてもうらやましいことだろう。まして、その機能を失ってしまった夫婦にとってはなおさらだろうと思う。 そんな強い気持ちが医学的に可能になった代理出産を推進する力となっている。親は赤ちゃんの目が似ているといって喜び、鼻が、口元が似ているといって子どものようにはしゃぐ。自分の遺伝子の一部を引き継いでいるのだ。自分の一部を引き継いでいることに喜びとそして責任を感じる。無理だと思っていた自分たちの子どもを、もしも得られるとしたら、それは嬉しいことだろう。 しかし、この代理出産は別な角度からの問題がある。出産する母の立場だ。女性は子どもを生むときには大変な苦痛を伴うし、場合によっては自分の生命さえ危うくしてしまう。もちろん謝礼金などで片付けることができない苦労である。何気ない持ち物だって十月十日も使えば愛着が湧く。まして、お腹の子どもとなればそれをなくしなさいと言うのは無理だ。今回のケースもお互いよく話し合ったようであるが、代理に出産した母の心を出産後どのようにケアしていけるのか。依頼した夫婦がどのように感謝の気持ちを継続的に一生伝えていくことができるのか、信頼関係を持ち続けていけるかが大切だと思う。これができなければ、批判にある「道具として使われた」ということにも当たろう。 もう一つ、生まれてくる子どものことだ。その生まれてくる子には何の責任もない。でもいつかはそのことを知る日が来るだろう。どのように理解してもらえるだろうか。どんなことをしてでも理解してもらえる自信をもっているだろうか。そのことゆえに子どもの心に傷を作ってはしまわないだろうか。 夫婦はこんなことを乗り切る確信をもてなければ、代理出産で子どもをもつ喜びを味わうことはできるが、代理出産の母に、そして子どもに幸せをもたらすことはできない。 自分の遺伝子が引き継がれている喜びと言うが、自分の遺伝子も自分でつくったものではない。自分の親から引き継いだものだ。よその子というが、同じ人間だ。遺伝子を引き継いでいると言ってもあまり似ていない親子もある。三浦綾子作の、わが子を殺した殺人者の子どもをわが子として育てると言う小説「氷点」を思い出した。そこまではいかなくとも育てる苦労と喜びを味わう方法は、代理出産以外にもあろう。子を育てることは、親を本当の親に育てることなのだ。そのために親は子を育てる。親が良く育てば子も良く育つものなのだ。 (す) |
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